Nichukenji no To

Nichukenji no To(那霸市)

Nichukenji no To
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hirobee
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2018年6月 • 独自旅游
沖縄県立第二中学校は、第一中学校の志望者増加に伴い明治43(1910)年に沖縄県立中学校分校として首里城に作られ、翌年独立して沖縄県立第二中学校となったことに歴史がはじまります。一時期嘉手納に移るも再び大正8(1919)年に現在の沖縄県立那覇高等学校の場所に移転しています。

沖縄戦当時第二中学校でも例に漏れず学徒隊が結成され、鉄血勤皇隊として独立混成第44旅団第二歩兵隊に、通信隊として第62師団に配属となっています。動員学徒数に対する戦死者の割合は8割を超えており、数字の上では多くの学徒隊犠牲者を出しています。

しかし実際には配属によって戦死者の占める割合は大きく異なっており、通信隊に配属された二中通信隊に於いてはほぼ全滅に近い犠牲者を出しています。

それに対し二中鉄血勤皇隊の犠牲者はほとんどいなかったという特徴がありました。なぜなのか?実は二中鉄血勤皇隊が配属されたのは、北部戦線に於ける宇土支隊だったことに加え、部隊配属前に出された配属将校による自宅に戻るために一旦解散されたことに起因します。

那覇市内にあった旧制中学校や高等女学校は南部戦線に動員された結果多くの犠牲者を出しました。しかし二中の場合、解散命令が出された際に既に多くの住民が北部へと脱出後だったため
、自宅へ帰った後部隊に戻ろうとしても既に沖縄本島が米軍によって南北に分断されており、実際戻ることができなかった事実があります。

配属将校の名は高山代千八中尉。ガダルカナルの戦いを経験した将校として、米軍には歯が立たないことを見越して一時解散を命令されたようです。

残念ながら多くの学徒隊員のうち通信隊に配属された二中通信隊学徒は、南部戦線の最前線に立つことになり、他の学徒隊同様多くの犠牲者を出しています。しかし高山中尉が指揮する二中鉄血勤皇隊は20名と少ないものの犠牲者を出してはいません。諸説あるため断定はできないものの、配属将校である高山中尉が命令違反を承知で糸満の高嶺に配属予定を北部に変えたことの結果戦闘最前線に立つことなく、学徒隊解散に至ったといわれています。これは学徒隊生存者の手記にも書かれていることなのでかなり信憑性の高いものだと思います。

沖縄戦に於いて多くの学徒隊の少年少女が戦没したのは、日本軍指揮のもとだと言うことは否定はできないことですが、それは組織の問題であり軍人個人の問題ではないように思います。

毎年6月23日に沖縄県立第二中学校・沖縄県立那覇高等学校の在校生や同窓生である城岳同窓会によって、学校近くに移転し建立された二中健児之塔に於いて慰霊祭が挙行されています。

戦没学徒の御霊を慰めるのは勿論のことですが、同時に闇雲に犠牲者だけを増やさない考えを持った配属将校の存在を忘れてはならない・・・、そんな気持ちにさせられました。
撰写日期:2018年8月3日
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